今や日本人がメジャーリーグへ移籍するのは当たり前の事ですが、野茂英雄さんがドジャーズへ移籍した1995年には考えられない事でした。
ほとんどメジャーリーグに移籍する選手がいなかったあの時代、野茂英雄さんは「トルネード投法」を引っさげてメジャーリーグで鮮烈にデビューしました。
苦労された分、数々の「名言」と呼ばれるような言葉も残しています。
そんな野茂英雄さんの現在や息子さんについてまとめてみました。
そんな名言を残し日本を発った野茂英雄さん。
当時、野茂英雄さんに日本中の野球ファンが熱い声援を送ったのも頷けます。
また、多くの野球少年に夢を抱かせた功績は素晴らしい事です。
まさに野球界のレジェンドと呼ぶにふさわしい人物です。
この野茂さんは現在、また新たな境地をアメリカで開こうとしています。
また息子さんも同じ野球という業界で活躍しているようです。
そんな野茂英雄さんの心に残る名言と共に、スポットを当ててみました。
米メジャーリーグ・ドジャーズに行くまでの野茂英雄とは?
1968年大阪生まれ 身長188cm
子供時代は全く無名で高校野球とは縁のない大阪の公立高校へ入学。
野茂英雄、無名の公立高校からノンプロ〜五輪銀メダルまで
高2からエースとなり完全試合も達成し、だんだんと頭角を現し始めました。
高校卒業のときにプロの誘いを断り、ノンプロの新日本製鐵へ入社。
そこでその後最大の武器となるフォークボールを習得し、1988年のソウルオリンピックでは銀メダルに貢献しました。
そして翌年のドラフト会議で、当時最多の8球団から指名され抽選の結果近鉄に入団となりました。
野茂英雄、近鉄でプロ生活を始める
90年にデビューしてMVP、新人賞などの賞を総なめ、デビューから4年連続で最多勝と最多奪三振を獲得するなど素晴らしい活躍をします。
また独特の背中を向ける”トルネード投法”も話題となりました。
しかし94年、当時の鈴木監督との確執もありメジャーリーグへの挑戦を表明しました。
名言”
はこの頃の心境なのでしょうか。
近鉄での1億4千万の年棒を蹴ってドジャーズと980万円でのマイナー契約。
いろいろなものを捨てても自分の夢だけのために生きる、そんな生き方に日本中が興奮しました。
アメリカへ渡った野茂英雄さん、こんな名言が心を打ちます
メジャーからマイナーへ降格し、さらにはベネズエラリーグまで行って投げ続けた本物の努力家の言葉には本当に重みがあります。
さて、アメリカへ渡った野茂英雄。
野茂英雄、トルネード投法で三振の山を築く
あの独特のトルネード投法は全米が度肝を抜かれました。
ドジャーズの観客も増えニューヒーローと称えられました。
そしてメジャーリーグでも新人王と最多奪三振を獲得し華々しいデビューを飾ります。
その後トレードで球団を何度か変わり、メジャーリーグで2度のノーヒットノーランというびっくりするような記録を残しました。
ダルビッシュがメジャーで1年間の奪三振数で野茂さんの持つ236奪三振を上回ったとき、インタビューで「時代も違うし比べられるような位置にも行けていない」と敬意を払いました。
松井秀喜も「野茂さんがいなければ多くの選手はアメリカに行けなかった」と語っています。
現在の野茂英雄さんと息子さんについて
さて、少しプライベートに触れましょう。
1991年に社会人野球の時代、相手チームのチアガールであった今の奥様に一目惚れ!
猛アタックの末結婚したとか・・・。
綺麗な方です!
二人のお子さんがいるようですが、長男の貴裕さんは今日本ハムファイターズで通訳として活躍しているいるようです。
なんだかとても可愛らしい(失礼)方ですね!
アメリカ大リーグへの道を開いた野茂英雄さんについてのまとめ
さて、野茂さんご自身は2008年にプロ野球界から引退しました。
2003年に設立した「NOMOベースボールクラブ」で野球を目指す若者の受け皿になるべくオーナーとして活躍されています。
そのかたわら、2016年2月には「サンディエゴ・パドレス」という野球チームのアドバイザーに就任。
また新たな境地を開こうとしています。
最後に野茂さんの名言をもう一つ
まさに有言実行、男の中の男!
また新たな夢に向かって歩いているのでしょう。
これからの活躍も期待しています!